最終更新日:1998年9月25日


 墓を探す

 さて、話はさかのぼること今から1220年前の奈良時代、ここ上総国の国守(今の県知事)に大伴家持、次官である介(すけ)に藤原黒麻呂が任命されました。黒麻呂は自分の任地の気に入った場所に個人用の牧場を設けました。
 その子、従五位下先の常陸介春継はこの牧場を当時流行の荘園に変え、さらに周辺の土地を開墾して拡大し、公務が終わった晩年はよほど気に入ったのかこの荘園で過ごし、この地で没しています。
 春継の孫、菅根(すがね)と当幹(まさもと)の兄弟はこの荘園を興福寺に寄進2)、その甲斐あってか文章生(もんじょうせい)として出身し、藤原時平と結んで菅原道真失脚に一役かい、晩年は今の大臣にあたる参議に昇進。その子、元方(もとかた)は娘を村上天皇の女御としてその上の大納言にまで出世しています1)。
 この荘園の名が、藻原庄(もはらのしょう)であり、茂原の地名が歴史に表れる最初といわれています。

 私のライフワークは、ご先祖様(勝手に決めました)藤原春継の墓を探すこと。どこにあるのかな〜?? この辺は、加藤さんや御園、御園生さん、結構多いんですよ。

 因みに、藻原庄は東西約3km、南北約1.5km、東は「清水野」、西は「巨堤葦原」、南は「縁野(緑野か?)」、北は「小竹川」を四至(境界)としていたとのこと。北限の「小竹川」を現在の豊田川、西限の「巨堤葦原」を茂原市国府関から長柄町力丸、千代丸にかけての谷底平野と考え、南限を茂原市箕輪から長柄町榎本付近、東限を茂原市の長谷から内長谷付近とする説があるそうです。今の緑が丘リゾーンと同じ場所ではないか!!

2)  確かに、ここは上総の国の国府(現在の市原市の市原、郡本、総社、能満説あり)4)から太平洋への出口にあたり、国府関という地名も残っています。また、当時の茂原の平野部はまだ湿地が多かったため住むには現在の山間部が適当であったこと、当時の牧場は馬が逃げないように掘りや柵をめぐらすが周囲が湿地で囲まれた島や中州、半島状の地形が手間と経費を節約できる3)ということから、今の茂原公園辺りに牧があったのではないかと考えると、この説はもっともらしい気がします。緑が丘リゾーン開発時の遺跡発掘調査報告をあたってみようと思います。  当時、荘園の四至(しいし:所領の東西南北の四方の境界)には四至石を置いて境界としたそうですので、それを発掘できればすばらしい。

 鎌倉、戦国時代になると再び茂原荘の字が出てきますが、こちらは別だそうです。墓探しのヒントにはなるかもしれませんので調べてみる予定です。


藻原荘の推定位置はここ

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