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以下は、1996年3月31日 茂原市教育委員会発行(第252空)茂原海軍航空隊調査報告書をもとにしています。図、写真はそこからの複写です。
「旧海軍茂原飛行場についてのメモ」
戦時中の茂原の海軍飛行場のことをちょっと調べてみましたら、図書館で茂原市教育委員会発行(第252空)茂原海軍航空隊調査報告書を見つけました。いろいろ興味深いことが判りましたので御紹介。
左の写真は1947年撮影の旧海軍茂原飛行場航空写真です。
拡大図はこちらです。大きいですので御注意。多数の掩体壕が判ります。
- 今でも茂原に残る海軍飛行場の名残り
- 今も数カ所残る掩体壕は有名。
- 三井化学(旧三井東圧)さんの東の南北に延びる直線道路は滑走路跡
- 同 北側の東西とそこから先の南北の道路は滑走路から掩体壕への誘導路の跡
- 国道128号旧道(茂原〜腰当間)は飛行場ができたことにより作られた迂回道路
- 東郷保育園北の交差点からつくも苑経由東部台入り口までの道路も飛行場ができたことにより作られた迂回道路、通称東郷海軍道路
- 茂原駅前東(北)側の斜め道路は、飛行場への引き込み鉄道線路の跡
- 南中学校隣の浅間山の崖(我が家からも見える)は飛行場造成用の石材採取場所。ここから、バスケットをぶら下げたケーブルが、日立茂原工場の敷地をまたぎ、三貫野で方向を変え、現市営球場辺りまで通じていた。
- 豊田小学校裏山から本納方向の山一帯には地下壕があり防空壕、弾薬燃料倉庫、病院、兵隊の宿舎として使われていて、掘った土は腰当から飛行場までトロッコで運送。
- 早野には学徒動員と徴用工のための百畳敷徴用工宿舎があり、飛行場のために水道管(長柄に水源施設を建設し水道管を敷設)を新設。
- 航空隊の活動
B29による関東地域空襲を迎撃、P51と格闘
鹿児島県国分飛行場から沖縄方面に特攻出撃
- 飛行場の大きさ
- 防衛庁戦史資料室資料では、基地の面積は幅1500mx長さ1300m、滑走路:1000mx80m,1200mx80m,1200x60mの3本
(但し敷地買収途中で終戦。飛行場も増設途中で終戦時に完成は1本のみ)
- 茂原市史では、総面積240ヘクタール、兵舎敷地40ヘクタール。南北は茂原市の市営球場から北、工業高校まで。東西は、萩原小学校から東中学校まで。随分大きい。
- 茂原基地で終戦時米軍への引き渡しされた飛行機
零式艦上戦闘機五二型 73機
零式艦上戦闘機二一型 3機
彗星艦上爆撃機四三型 1機
零式練習戦闘機 2機
白菊機上作業練習機 2機
九三式中間練習機 4機
合計 85機 (結構多い!!)
終戦直後は、厚木基地の反乱に対処するため完全武装でこれらの飛行機が待機していた。
- 戦後の飛行場は復員軍人を中心に開拓、1950年朝鮮戦争時には米軍基地、1954〜55年には海上自衛隊の航空基地とする案がでて、賛否両論あり。滑走路の存在が飛行場復活問題に繋がるとして市が取り壊し。その後、東洋高圧工業(現三井化学)等が進出。ここで基地が出来ていたら、今の茂原も随分変わった町になっていたでしょうね。
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