最終更新日:1998年9月26日

 

広報「もばら」平成3年9月5日号より

読みやすいように一部の段落を原文から変更してあります


文化財
 伝説・口碑と歴史
押日碑

  バスで茂原・千葉街道(二宮街道)を千葉に向かい、右手に冨士見中学が見えかくれすると直ぐに停留所「船着神社」がある。船着神社の社はバス停の斜め後ろの小さな祠がそれである。祠の前に昭和三年十一月に御大礼典記念として建立された高さ一・五メートルほどの「押日碑」がある。碑の一部を記載すると、

   「−略−日本武尊初着斯地偶見夕陽将没嘆日此日可惜今日世俗称押日恙国音惜日也今此船着神社称其古蹟也−略−」

  概略は、昔、押日村の南方には入江が深くさしていた。今でも白旗の丘等に海であった跡を見ることができる。その人たちは穴を掘って住居としていた。今もその住居の跡が残っている。日本武尊が船で来てここに上陸した。尊がここに上陸した時、ちょうど夕陽が沈むときであった、尊は「惜しい日」だと言った。いま「押日」と言っているのは「惜日」の音からである。日本武尊が上陸した地なので船着神社と名付けた、と。

  五万分の一の地図を二十メートルの等高線で切ってみると、船着神社のすぐ南を流れる豊田川流域は海水のさす入江である。船着神社の下流、早稲田橋の川底からはハマグリ等の貝化石が散見できる茂原貝層であって、押日の地勢は碑文の通りである。

  穴居の跡とは、横穴古墳を言っている。碑を建立した昭和三年頃、茂原地方では横穴古墳を「昔、人が住んでいた穴」また「昔、火の雨が降った時に逃げた穴」と考えられていたそうである。真名の医師内田道彦氏の案内で調査研究をした三木文雄氏が昭和十一年「考古学雑誌」に「上総国二宮本郷村押日横穴群の研究」を発表して、押日の横穴古墳は一躍全国に名がしれ、多くの考古学者が訪れ学んだ。時移り、茂原海軍航空基地の燃料倉庫がわりとなって一部破壊された。また県道の拡張に伴い山が削られて横穴古墳はさらに損壊されてしまった。

  横穴を、古墳ではなく穴居と考えていたにせよ、古墳時代は船着神社周辺をはじめ豊田川流域や山の谷合いで稲作をしていた人々が住んでいたという事実は変わらない。両総用水路の工事の際、船着神社の五百メートル程東、冨士見中学校下の水田で溝を掘り進んだ時に、古墳時代の土器、土師器(はじき)が出土している。(押日・斉藤氏所有)押日・山崎・国府関地区は横穴古墳が長柄町と並んで全国的に見ても多い地であった。しかし、宅地造成等の開発にともない現在はそのほとんどが姿を消してしまっている。

  日本武尊の伝説については、紙面の関係上触れないが「押日碑」は茂原の歴史の一断面を語りかけてくれている。なお、碑文は押日の住職松尾清明氏である。

茂原市文化財審議会委員
高橋 三男



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