最終更新日:1999年3月23日


 茂原市下太田遺跡について

  平成11年2月に、NHKの「堂々日本史」を見ていたら、出てきました、茂原市下太田遺跡の発掘現場、主旨は「ここの埋葬形態から言って平等な社会と言われていた縄文時代にすでに身分制度があったのではないか?」というもの。さて??

  茂原市街から千葉方面に車で向かうために千葉外房有料道路を利用します。普通は茂原市役所方面から国道128号線を北上し本納で左折しますが、渋滞しているときは、国道128号線とそのバイパスが合流する手前を左に折れて工業団地の裏を通り、新治(にいはる)の交差点まで行って千葉外房有料道路に入る抜け道を選ぶ方も多いと思います。

  ほとんど気がつくことは無いと思いますが、実はこの道沿いに「下太田貝塚」という縄文時代の遺跡があり、最近ここで200体以上の人骨が発見され、1000年にわたって生活していたことが明らかになってきました。

(遺跡の詳細は下記の資料を参照ください)

  女性の平均出産年齢20才とすると、4000年前とは200世代前のご先祖様。今生きている我々ときっと繋がっているはずの一族が、1000年間50世代をこの近くで過ごしたのです。

  ここでどんなふうに生活していたのだろう??何を食べていたのだろう??当時は海が今よりずっと山際まできていたはずです。遠浅の海岸で貝を採ったり、丸木舟に乗り、今の市役所の方にまで釣りに来ていたかもしれません。

  初めは、一族の先祖を環の様に囲んで死者を丁重に葬り、一緒に生活していたイノシシや犬の幼獣も葬って、赤いベンガラをまいて清めていたのに、最後は単独に丁重に埋葬される人と飢えて死んだミイラ化した死体を坑に放り入こまれる人に身分が区別されるようになってしまった。(この辺はお前の独断と偏見だとご先祖様に怒られるかもしれません)

  ここで生活していた1000年間に何が起こったのだろうか?最後はどうしてここから去ったのだろうか?そしてどこに行ったのだろうか?想像はどんどん広がります。気候は寒くなり、海は遠くなって行き、海が去ったばかりの湿地は、稲作には不適だったかもしれません。そういえば、茂原は縄文の遺跡数に比べて弥生の遺跡数は極端に少ないような気がします。

  とはいえ、墓地兼ごみ捨て場があるということは、その側に住居があったということ。今後の発掘と発掘品の調査に大いに期待しています。さてどうかな??

     住居も発掘できれば青森の山内丸山遺跡の様に町興しの観光資源にもなるかもしれないし(^o^)

以上

遺跡発掘現場写真
         埋め戻した後を阿久川上流(北側)の橋上から撮影


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