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横穴式古墳
睦沢町立歴史民俗資料館 平成11年3月13日開催 歴史民族体験講座「遺跡見学会」、同日開講 考古学講座 「古代のお墓」より
睦沢町立歴史民俗資料館
Mutsuzawa Museum of History & Folklore
〒299-4413 千葉県長生郡睦沢町上之郷1654-1
TEL 0475-44-0211/FAX 0475-44-0213
平成11年3月13日に睦沢町立歴史民俗資料館主催にて、歴史民族体験講座「遺跡見学会」と考古学講座「古代のお墓」が開催されました。ここで見聞きしたメモ、頂いた資料をかいつまんで私流に解釈して以下に記します。一切の文責は私、かとしんにあります。
歴史民族体験講座 「遺跡見学会」より
考古学講座 「古代のお墓」より
3/13 歴史民族体験講座 「遺跡見学会」より
史跡長柄横穴群、 案内:長柄町教育委員会 松本昌久氏
ご注意:長柄横穴群は現在は開放されていますので見学は可能ですが文化財ですので保護には十分気を付けてください。いたずら書きなんてダメ!! 事前に、長柄町教育委員会に電話をしておけば、案内、説明をしていただけるとのこと。
第三小支群前
房総の横穴墓は、6世紀から10世紀にわたって使われたとのこと。特に後期になると大型で凝った作りのものとなるとのこと。確認されているだけでも、長生郡内に約1200基、長柄町内に300基、茂原市内に150基以上あります。
長柄横穴群が東西合わせて9個の小支群にわかれ、全部で35の古墳が確認されています。
最近遺跡のある敷地の買収が完了したとのこと。今後、史跡として整備されていくので、線刻画は見ることが出来なくなりそうです。
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第13号横穴墓玄室
ここには、下記線刻画が描かれてありました。ここの他の横穴墓にも線刻画がみられるものがあります。
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第13号横穴墓玄室線刻画 松本氏配布資料より
長柄横穴群は、古墳として実際に使用されていたときから現在まで開放されていたため、厳密には横穴墓と同時代の線刻画であるかは不明。但し、画の題材の一部(鳥等)は他の横穴墓(塞がれていた横穴墓や他地域(東北地方等)のもの)と共通なものがある。鳥は豊作を意味していた?。 ここの線刻画には五重の塔らしきものも描かれており本当ならば仏教の地方伝播はかなり早かったか?
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第三小支群中の一つ
写真は羨道部分に立つ案内の松本氏、羨道左側(指差部分)は未発掘。横穴墓の側壁や天井は丁寧に削られ整形されてあります。
国内の他の地域に比べて、房総の横穴墓は圧倒的な大きさとのこと。
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同じく第三小支群中の他の一つ
玄室内部は切妻、寄棟、アーチ形等に形作られています。
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以上
考古学講座 「古代のお墓」より かとしんのメモ
講師:長柄町教育委員会 松本昌久氏
- 分布
- 九州から宮城県まで分布。 仙台市大年寺山横穴古墳の話
- 300以上ある多い県は、福岡、大分、熊本、宮崎、島根、石川、奈良、静岡、神奈川、東京、埼玉、千葉、茨城、福島、宮城。
- 逆に、一件も無いのは、四国全県、和歌山、三重、滋賀、愛知、岐阜、山形、岩手、秋田、青森、北海道。
- 九州、西日本日本海側、東日本大平洋側、近畿の一部が多い。
- 日本独自に始まったよう。全国的に特定の場所に集中的に分布している。
- 横穴墓を作る専門家集団がいて、定住、移動をくり返していた??
- 横穴墓の歴史
- 九州北部に5世紀後半から始まり、6世紀前期で九州中部や山口、島根、奈良へ伝播。6世紀中期に福井、石川へ、また静岡、神奈川へ、6世紀後期から末にかけて富山、千葉、茨城、福島、宮城へ。
- 初期のものは簡単で小さな穴だが、東への広がりと共に、形式に地域差がでてくる。
- 長生地域は、7、8世紀が主流。(大化の改新から奈良時代)
- 千葉、長生の横穴墓
- 県内は、長生、安房、富津市、銚子近辺に集中的に分布。
- 横穴墓は、長生地域で約1200基あり。内、長柄に約300基。高壇式は長生地域独特のもの。
- 前方後円墳に代表される古墳から横穴墓に移行したが、山武地域は古墳体制、安房は同居していた。
- 南向きが多い。
- 6世紀後期が長生の横穴墓の始まり。7世紀で大型化し寄せ棟型となり墓前域が拡大。開放式が多い。開放型の場合は副葬品は少ない。8世紀初めまで続く。最初は東海地方と同じ小型のもの。その後、出雲地方の大型の形式が伝わり、独自の形式にと発展。
- 高壇式とは、玄室を高くしたもので、ふたをするのを省いた??
- 長生型は、高壇式の上に玄室を入り口より広くとり天井部分を加工した家型の玄室を持つ。中は、大人の手が届かない程高い天井を持つ。切妻形、寄棟形、アーチ形の天井形式あり。
- 長生型の典型例は、玄室、羨道、墓前域の3要素を持つ。墓前域は、入り口の前にある三方を壁で囲んだ平たんな部分で、ここから土器が出土することが多い。供物を供え、儀式を行ったところか。墓前域の正面壁に羨道の入り口が開いている。羨道は狭く先に玄室への入り口が開いているが、この入り口は羨道の床面より1.5〜2m高くなっている。玄室内は広く(羨道と玄室はT字形)家の部屋のようになっており、壁面、天井は整形されており、床には複数の棺座が設けられている。
- 羨道と玄室はT字形で、玄室が家形なのは出雲と同じだが、玄室が高いのは長生型だけ。
- 平成5年の調査では、壁に漆喰が塗ってあったとされているが、本当に漆喰か不明。ちょうなの様なもので壁面が丁寧に加工されてあるのは事実。
- 線刻画について
- 玄室はふたをしていない(密閉していない)ので、自由に出入り出来、いつの画かの確証はない。但し、一部の密閉された横穴墓でも同様な画が見つかっている。横穴墓はこの地域に仏教が伝搬する以前の墓だが、そこに五重塔らしきものが描かれてあるのは、仏教が推定より早く伝わったか、都で見た人の伝聞で描いたか??
- 全国各地の横穴墓の線刻画は鳥が描かれたものが多い。また幼稚なものが多い。鳥にどんな意味があったのか??
- 墳丘と横穴墓
- 米満(ヨネミチ)横穴墓群を調査したところ、山の側面の横穴墓と山上の塚(墳丘)が同時期に作られていることが判明。実際は横穴墓と墳丘がセットになっていたところが多いのかも知れない。
- 墳丘と横穴墓のセットは、山陰と東北に見られるが、東北のものは墳丘を中心にして同心円上に横穴墓を設ける形式。山陰は山の側面の横穴墓の上の山上に墳丘を設けるもの。長生の横穴墓もこの形式。山陰も家型の玄室だが、人が立って入れない程小さい。また、玄室と羨道の間に高低差がない(高壇式ではない)。
- 米満横穴墓群は、道路のトンネルを切り通しにするための工事の前に調査された。総数130個程度あるが未調査の横穴墓が多い。
- 横穴墓の埋葬類型
- 長生の横穴墓は代々使われ、次の埋葬が必要となった時は、以前の埋葬者の骨を1.玄室内に小さくまとめて置く、2.別の小横穴に追葬する、3.追葬用の大きな横穴墓に納め直す等があった。
- 横穴墓は集中的にあるが、似た玄室の墓は、親族関係の集団を表すのかもしれない。
- 昔の墓域の様子(想像)
- 墓域は現状に見られるようなうっそうとしたうすぐらい野山の墓域ではなく、白い壁と横穴墓、墓前域のある明るい墓域だったと考えるべきか。
- 仏教の伝播と共に、火葬となり横穴墓は廃れ、忘れ去られていった。開放されてあった横穴墓は保管用倉庫としても近世まで使われていた。
以上
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