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睦沢町立歴史民俗資料館 平成11年3月6日 考古学劇場 「発掘現場から最新報告」受講時のメモより
以下の内容、感想は、講演者のお話がベースになっていますが、あくまで私が聞き、まとめたものです。特に下太田遺跡部分を取り上げました。
講師:総南文化財センター調査研究員 風間俊人氏
- 前回は貝層中(混土貝層)の遺跡、今回は貝が少ない(混貝土層)
貝少なく骨はぼろぼろ、指で押すとへこむ
骨が残ったのは水のお陰、泥に水を大量に含んでいたので空気にふれなかった
カルシウムは溶けだしたがそこに水が入って形状が残った。よってぐつぐつ。
ぼろぼろの骨であるため、肋骨や背骨の細かい部分は骨か泥か区別がつかない。
- 4000年前は、成人と乳幼児の埋葬場所は分けられていた。両者に対する考え方、接し方に相違がある。
- 人と共に若いイノシシを埋葬。首飾りだったらしい玉?もつけていたらしい。
今のペットか? アイヌの熊祭りは小熊を殺すがこれは食料の肉も神にもらったものとして感謝する儀式。通じるものがあるか。
- 集団土坑墓の人は、争って傷ついた痕はない。かなり短い間に埋葬されたよう。
かとしんの推理(^_^;)では、伝染病で亡くなった方が触れずにほっておかれ、しばらくして集団で埋葬された??。
伝染病の病原菌は1000年以上生き残るそうなので気をつけなければいけないと冗談混じりに講師の言。縄文の呪い!
でも発掘された皆さん元気のようで。
- 埋葬された成人は、屈強な骨格。女性も男性顔負けの丈夫な骨格。但し、栄養不良だった痕跡の残る骨も多数。
- 遺物は埋葬時に身につけていた、もしくは一緒に埋葬された物もあるが、かなりが後から流されて堆積した物。近くに住居跡があると思うのだが、多分深い土砂の下。(1000年続いた住居跡が発掘できれば、よしのがり、三内丸山と並ぶ遺跡になって、町興しができない?昔の発掘の場所は、本当に貝がでる貝塚だった。お墓より貝塚を住居の側に設けそうな気がするので、悪?川の対岸方向に住居跡があったのでは??三内丸山はどうだったっけか?)
- 今の一宮川は、当時入り江。現在水が出やすいところ。
- 発掘担当者(調査員)により当たり外れがある。今回の報告者ははずれで、あまり大きな発掘に当たっていないが、この下太田遺跡担当者は先に古代の琴が出た国府関遺跡を当てている運の良い方。但し、当たりはずれは、遺跡が発見される前にそこで何かをしようとした方にとっては逆。
- ラジコンヘリ、ショベルカー(ユンボ)のバケットに爪無し。運転手は操作の専門家で表面10センチをはいで、と言えば対象の地面全体を綺麗にはいでくれる。
- 堂々日本史
墓制から縄文も身分差があり平等ではなかったと推定
- 加曾利?貝塚は貝肉の加工工場と考える 内陸と交易
- 能満寺裏遺跡
5世紀終わりになると住居が消え古墳が出来るが、立ち退かされて古墳群が出来た?